親分 博打打ち 奕徒

親分 博打打ち 奕徒

文久二年(1862)二月廿日 指田日記下p103
夜、萩ノ尾里正宅地の原山の梅次郎見世
に桃太郎来たり居りけるを、五、六人の
奕徒(ばくと)押し入り、桃太郎に打ちかかりたる
故逃げ出しけるを、大勢とりかかり打擲(ちょうちゃく)
し、右の腕に突疵(つききず)を負わせ、背に黒あざ
ある由なれども、家に引き取る。狼籍人
は芋窪の大五郎子分に付、此れは八幡前(屋号・小地名。市内本町にあった八幡神社参道付近)
の代五郎、神明ケ谷角の松五郎、蔵敷某
を以て、萩ノ尾里正方にて内済、昌蔵承
諾いたし、桃太郎の疵が平癒の後に惣方
和談すべき由にて済む
文久二年六月廿三日 指田日記下p106
所沢に行く。五ッ時より雨、次第に大雨、
重着にて冷える。三ッ木村より芋久保辺
迄の博徒、所沢博奕(ばくえき)の宿に推し入りて駒
札(こまふだ)を取り来る

文久二年六月廿五日
神明拝殿に石鳥居の金子六十両を村中よ
り持参、壱人も滞りなし。

 此の辺の博
の党、所沢博徒党を催し百人余り押し来
る風聞ゆえ、裏山の浅間山近辺に縄を張
り石を集め六十人余、所沢より来るを待
ちけれども、一人も来る者なし

文久二年六月廿七日 指田日記下p107
猶、博の徒、待ち居りけれども取り合
う者なし、依って一統引き取る。